神様、神様! 神様助けて!
                  
主よ哀れみたまえ、主よ哀れみたまえ。
神の母聖マリア、我らのために祈りたまえ。
聖ミカエル、我らのために祈りたまえ。
聖なる神の使い、我らのために祈りたまえ。
洗礼者聖ヨハネ、我らのために祈りたまえ・・・。
 復活徹夜際でも多くの典礼聖歌を歌うのですが、何故だろうかその中でも諸聖人の連願がとても心に響き、今でも耳にするとあの夜の感動が蘇り、涙があふれ出る。
 どうやったら死ねるのだろうか。何階から飛び降りたら・・・。いや、手首を切って水の中に・・・。いやいや、ガスの方が・・・。それよりも、薬が・・・。もう、生きている意味が分からない。生きていく楽しさがわからい。ただ、迷惑をかけ、苦しみしかないな。数年前から、ずっと死への憧れと、死ぬと言う事の恐怖を思い生きてきた
そして自分勝手な苦しみを何かに救って欲しいと願い、神道、仏教、キリスト教(どれも自称の団体だったのですが)と勧誘されるままに入会したが、どれも私が求めていた救いからは遠いものだった。
 そんな中、ふと書店で立ち寄った宗教コーナーで見かけた聖書を手に取り、詩篇に惹かれ購入し、一年を費やし読むことになった。聖書の随所に書かれている救い。「コレだ!」と思ったが、以前に入会していたキリスト教(自称)からの胡散臭さがあり思い悩んだが、色々あるキリスト教の大本のカトリックは、どうなのだろうかと思い、教会に行こうと思ったが・・・、教会に行った事が無い私はインターネットで、教会って何ぞや?、行くとどうしたら?などと調べ、それから数ヵ月後にようやく教会へ行く決心をした。
 住んでいる(以前の)場所から近いと言うことと、初めて教会に行く人にイラスト入りでホームページに紹介していた百合ヶ丘の教会に電話をし、日曜日のミサに出席させてもらったが、聖歌を歌うということ以外、他所との集会の違い分からずにいたが、百合ヶ丘教会のデュポン神父様の進めで通い始めた、公教要理に出席するうちにイエス・キリストによる救い、愛、そして御聖体をいただく事、神との交わりに生きることの素晴らしさを教えていただき、真理たる神との交わりと、御聖体をいただく事への憧れをいだいていった。
 その後、引越しで調布教会のコンプリ神父様に少しお世話にもなり、昨年10月から鶴見に引越してからは、こちらの鶴見教会のYさん、Tさんに要理をお世話になり、今年4月11日の復活徹夜際の中で、洗礼を受けさせていただき、憧れていた御聖体をいただくことができた。
洗礼式中これでキリスト者になれたという喜びと、これで罪が許されたのだという安心感で、涙が溢れ出た。
以前、洗礼後のYさんの要理教室で、一緒に出席されている方から「洗礼を受けて、すくわれましたか?」と聞かれたが、きっと私は救われたのだと。私の些細な苦しみも神をお求めるためにある摂理なのだと。そしていつかイエス・キリストの再臨の際には、天国で永久に憩うことができるのだと。そう信じる以外にない真理の中、光の道を歩み続けたい。
そして諸聖人の連願で泣いてしまうのは、諸聖人の通功の交わりの中、罪深い私のために誰かが祈ってくれると気づくからなんだと。多分、そう思う。
 聖母マリア様、そして聖なる全ての聖人、聖女。罪人なる我ららのために、今も臨終のときも祈りたまえ。